翻訳中の本から 糖尿病の治療と患者との関わりについて

現在、Danielle Ofri先生のWhat Patients Say, What Doctors Hearを翻訳中である。
各章それぞれでコミュニケーションに関心がある医師にとって示唆に富んだストーリーが展開される。
第5章「よかれと思って」(With All Good Intentions)の一部を紹介させてほしい。トレーシーという糖尿病を患う中学校教師を軸に話が展開される。テーマはコンプライアンス(アドヒアランス)不良である。

ジョージタウン大学の言語学研究者であるハイディ・E・ハミルトンは糖尿病におけるアドヒアランス不良の問題に関心を持っている1)。医療費と健康において膨大なコストがかかっているからである。糖尿病の治療計画においてコミュニケーションがどのように関わっているのだろうかと考えた。ハミルトンは糖尿病患者の日常的な診察を24回分ビデオに撮り、加えて診察後に医師と患者を個別に面接した。診察室でのコミュニケーションの課題を見出すのは容易だった。患者に服従してもらうために医師はさまざまな戦略を試みていた。最も基本的なものは糖尿病についての事実と数値についての画一的ないわば読経だった。そして、患者教育の努力ゆえに説得や感情をさらに加える医師がいる。まるでアドヒアランスの利点を患者に売り込もうとしているかのようだった。中には患者に口うるさく言ったり、嫌がらせをする医師もいた。脅し作戦を使う医師もいる。透析や失明、切断、インポテンツ、心臓発作などが待ち受けていると恐怖を煽ろうとする。極端な例では患者がすぐに痩せなければ、他の医者を探さないといけないとほのめかす医師もいた。しかし、ほとんどの医師や患者が知っているように(親なら誰でも知っている!)、事実を繰り返し叩き込む戦略によって望ましい結果が得られることはほとんどない。しかし、医師は結果が出ていないにもかかわらず、何度も何度もそれを繰り返しているようだ。
一番目の疑問は治療計画を遵守することがなぜそこまで困難なのか?である。様々な研究によれば患者の50〜75%がアドヒアランスの問題を抱えていることがわかっている。答えはすぐそこにあった、ハミルトンからみれば火を見るより明らかだったーただし、あった場所は診察後に行った面接の中だった。医師が同席しない場所での自由な話し合いでは、患者は実際の生活の中で何が起こっているのかを率直に話してくれた。落とし穴やつまずきやすい場所がどこにあるかを正確に知っていたのである。
健康的な食品の値段やインスリン注射の不快感、薬の副作用、食べることに対する社会的圧力、入り組んだ仕事のスケジュール、服薬することの恥ずかしさ、体型からくる恥ずかしさ、血糖自己測定に使う消耗品の費用、ストレスを感じたときの衝動的な食事、高価な処方薬を節約するために錠剤を半分に割ること、他の家族との葛藤、子どもの頃からの好物に対する単純な渇望―患者はアドヒアランス不良の原因になるものを正確に知っていた(驚くべきことに、治療計画を守ることができない理由として事実に関する知識の欠如を挙げた患者は一人もいなかった)。
ハミルトンが医師と患者の診察場面のビデオに戻って見直すと、このようなことは一つも会話の中には出てきていなかった。医師は患者を教育することにほとんどの時間を費やしていた。診察後の面接では患者は関係する統計数値をすべて知っていたにもかかわらずである。「何が患者を動機づけているのか、何が問題を難しくさせているのかについては患者一人ひとりで大きく異なっていた」とハミルトンは私に言った。「患者は生活の中で多くの問題を抱えており、そのために糖尿病をコントロールするのが難しくなっている。しかし、通常の医師と患者の出会いの中ではこうした問題は浮かび上がってこない。」
・・中略・・
先に述べたように診察の開始時点では患者がリードする。予約して医師のところに来るのは患者側であることが普通だからである。しかし、数分後あるいは数秒後には医師側がリードを奪い、会話を特定の方向に誘導する-デブラ・ローターが述べるように専門的な生物学的医療における診察では特にそうなりやすい。これは常に悪いとは限らない-医師は患者の症状の原因を解明しようとして深く掘り下げているのかもしれない-しかし、そうであったとしてもどちらがリードするのかがシフトしたことは明らかである 。このせいでアドヒアランス不良についての患者自身の内部事情が表に出てこないのだろう:医師はリードするのに忙しくて立ち止まって尋ねることができず、患者は自分の知識を外に出す機会や出すべき正当な理由はないと感じているのだろう。
「医師は」ハミルトンは指摘する、「事実を暗唱するという、いわば鈍器を使っている。患者を教育するという立派な目標を持っているが、それは単に外出禁止令を何度も何度も読み上げているだけのように見えてしまう。」
・・中略・・
ブリュースターとアドラーは患者と主治医が一緒に自分たちの話をすることはどのようなことなのだろうかと考えた。トレーシーとデビッドはこの実験の最初のペアであった。聴衆の前で二人はそれぞれ20分間、自分の経歴を語り合った。デービッドはオハイオ州での子供の頃のトウモロコシの刈り取りやドミニカ共和国でのボランティア活動の経験を語った。トレーシーは教師になったこと、ケンブリッジでの新しい生活を始めようとして車を運転してやってきたことを話した。そして二人は病気の話をそれぞれがした。見ず知らずの二人が-事実そうだ-親密な関係になった。相手と一緒に仕事をすることの難しさや、その時そのときの苦労がいかに大変だったかを率直に話した。その後、司会者が二人の間の対話を促すような質問をした。
この講演のビデオ2)を見たとき、筆者は魅了された。一つのストーリーを二人がそれぞれの立場から話していることに興味をそそられた-まるで同じ場面を、別々の角度から撮影できるように配置された2つの映画カメラを通して見るような感じだった。糖尿病の事実がどのような経過をたどったかを追いかけることもできるし、それぞれのカメラが同じ出来事をどう写しだしているかも見てとることができる。しかし、最も興味深かったのはどちらのカメラもリアルかつ正確に描写していたことだった。ここにはコンプライアンス不良な患者や父権主義的な医師の典型は存在しなかった。モーガン・アマンダとジュリエットと同様に2つの同じように信頼できるなるほどうなずかせるストーリーがあった。同じ事実を客観的に伝える二つの物語がある。
さらに印象的だったのは、デビッドとトレーシーがお互いの経験を直接語り合い、誤解されていた努力やコミュニケーションのミスに直面していることだった。このようなやり取りを見たのは初めてのことだった。医師は同僚に患者のことを当然のように話すし、患者は友人や家族に主治医のことを話す。しかし、医師と患者が治療関係上のことについて直接、語り合うというのはほとんど前代未聞だった。

どう思われるだろうか?動機づけ面接を知っている人ならやはりそうか、ということになるだろうし、知らない人にとっては問題はわかった、しかしどうやって解決すればいいのだろうか?となろうだろうか。
ちなみに翻訳していないところでトレーシーと主治医のデビッドがどうやってアドヒアランス(そもそもこれを問題にし始めた時点で問題が解決困難になる、問題があるとわかることと解決できることは別々のことである)の問題を乗り越えたかがわかるところがある。

参照
1) Hamilton, H. E. (2001). Patients’ voices in the medical world: An exploration of accounts of noncompliance. In D. Tannen & J. E. Alatis (Eds.), Georgetown University Roundtable on Languages and Linguistics (pp. 147–165). Washington, DC: Georgetown University Press.
2) David & Tracey: A Live Healing Story Session https://vimeo.com/116001154
オフリ先生が2019年7月に原井クリニックにいらっしゃったときの写真

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA