翻訳

英文和訳・翻訳はどなたでも義務教育の頃から経験しています。語学が得意な方なら大学卒業後も続けているでしょう。私もそうです。ミシガン大学の留学を経て、英語に自信をつけた私は、26歳、国立肥前療養所に就職したときから、Hans Eysenck教授の講演の通訳を仰せつかるなど語学関連の仕事をもらうようになりました。九州大学医学部の近くにある英文校閲業者から下請け仕事で日本語の論文を英語に翻訳したこともあります。耳鼻科の論文でした。精神科医には馴染みのない用語が出てくるのはやむを得ないのですが、日本語自体が意味不明で途方にくれたのを覚えています。一度、原文を意味が取れる日本語に翻訳してから、英訳しました。一方、語学力でお金がもらえるという経験は嬉しいことでした。

それから今まで数多くの翻訳、通訳を手がけています。しかし、英文和訳と翻訳の区別がついておらず、語学力と翻訳対象の領域についての専門知識があればそれで十分だと思っていた時期が長かったのでした。英文和訳と翻訳は違う、翻訳では何よりも日本語の質が問題なのだと気づいたのはアトゥール・ガワンデの本を翻訳するようになってからです。そしてこのことに気づいてから、今までよりも翻訳が難しいと感じるようになりました。時々、「私は英語が苦手なので,日本語を深めて考えることしかできませんでした」のような趣旨の文章を目にします。私は逆です。小中の頃から国語が苦手でした。書き言葉としての日本語を磨くことに集中するようになったのは翻訳を通じてです。そして、それによって私が辿りついた日本語の質が中高の国語教師によって認められるレベルに達したのを知ったのもガワンデの本の翻訳を通じてです。英語を通じてでなければ、私は日本語を深めて考えることはしなかったでしょう。安西徹雄や別宮貞徳、山岡洋一の本を読むことはなく、日本語類語辞典や書き言葉コーパスにアクセスすることもなく、翻訳家の友人を得ることもなかったでしょう。

2017年初春、六甲中学の国語入試問題の読解問題にガワンデの「死すべき定め」の一章が使われました。中学入試は私も経験したことです。国語力の向上には読書が欠かせません。私の母も小学生の私に読書を強制していました。小学6年生とその親が「死すべき定め」を一生懸命読んでいる姿を想像すると何とも言えない気持ちになります。私の作文を国語教師が認めてくれたことで、まるで47年前の雪辱を果たしたかのような気持ちになりますが、「死すべき定め」のテーマを小学生が理解するのは大変なことでしょう。

翻訳家として日本語を考えるようになってからの仕事を紹介します。

アトゥール・ガワンデ

ガワンデ『医師は最善を尽くしているか』医療現場の常識を変えた11のエピソード(みすず書房)2013

 

ガワンデ『死すべき定め』死にゆく人に何ができるか(みすず書房)2016

 

漸進主義は現代医療のヒーローだ 1,2,3 月刊「みすず」8,9,10月号 2017
原題 The Heroism of incremental care, The New Yorker, Jan 23, 2017.

私たちは集中的で一度で終わるような医療技術には膨大な資源を投じながら、もっと人の役に立っている堅実で身近な医療の方は飢えさせようとしている。

2010年までほぼ40年間、ビル・ヘインズは頭蓋骨の内側から攻撃を受けてきた。57歳の彼は、眼の裏側から額に向かって、そして後頭部から首筋に向かってドリルで穴を掘られているような重症の片頭痛に苦しめられている。痛みの後には吐き気が生じ、30分毎に嘔吐する。それが最長で18時間も続く。一日と半日をベッド上で過ごし、次の日に言葉を絞り出すのがやっとだ。痛みは徐々に収まっていくが、全くなくなることはほとんどない。2,3日後には新しい頭痛が襲ってくる。

中略

医療に対して、私たちはヒーローに対するのと同じような期待を抱いている。第二次世界大戦後、ペニシリンなど山ほどの抗生物質が、それまで神の手によるしかないと思われていた細菌性疾患の災禍を克服した。新しいワクチンがポリオやジフテリア、風疹、麻疹を撃退した。外科医は心臓を開き、臓器を移植し、手術不能だった腫瘍を切除する。心臓発作を止められるようになり、がんは治せるようになった。過去、どの世代でも経験したことがないような人の病気に対する治療の変化が、この一世代の間に起きたのである。これはまるで、水をかければ火を消せること発見したようなものだ。だから、それに合わせて医療システムも消防士を配置するかのように作り上げられている。医師は救世主になった。
しかし、このモデルはまったくの間違いである。病気が火事だとすれば、大半のものは消えるまでに何か月も何年もかかるか、小さなくすぶりに抑えることができるだけである。治療には副作用があるだろうし、合併症にはもっと注意を払わなければならないだろう。慢性疾患がありきたりの病気になってきたのだが、それに対する備えは貧弱である。人の病いの大半には、もっと地道なタイプの技術が必要なのである。

中略

漸進主義者は長期的な視点を要求する。問題が起こる前に問題を認識できる、そして何年間にもわたって地道な努力を繰り返すことで問題を減らし、遅らせ、排除することができる、そう信じてくれと言う。しかし、一方で漸進主義者は全ての問題を完璧に予測したり、予防したりすることは決してできないということも受け入れてくれと言う。ほとんど押し売りである。漸進主義者の売りは緊急対応部隊と比べると不可解である。そしてもっと野心的である。漸進主義の主張のエッセンスは未来を予測し、変えられるというものだ。それで漸進主義者は自分にもっとお金を出せという。

注:全文を読みたいという方は個別に原井までお知らせください。

ガワンデを翻訳する仕事の意味は翻訳家としての自信がついたということだけではありません。私の医療への向き合い方が変わりました。「医師は最善を尽くしているか:ベルカーブ」の中に登場するマシューズ医師の「うちの患者がどのくらい生きるか見てみたいが、大半の患者は私の葬式に来るだろうね」という言葉はずっと残っています。パフォーマンスのサイエンスがそれからずっと私のテーマです。

医学・医療領域の翻訳・監修

患者の話は医師にどう聞こえるのか
ダニエル・オーフリ (著), 原井 宏明 (翻訳), 勝田 さよ (翻訳)

 

 

 

人体の冒険者たち――解剖図に描ききれないからだの話
ギャヴィン・フランシス (著), 原井宏明 (監修), 鎌田彷月 (翻訳)

 

 

人体は流転する
ギャヴィン・フランシス (著), 原井宏明 (監修), 鎌田彷月 (翻訳)

 

 

 

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